第七話 肉球をぷにぷにしよう
「今のは、一体・・・」
「これは記憶の断片ですよ、橘雄一郎という人の。
生前に犯した罪の記憶、魂の穢れです」
「俺たちはこの人の過去を見たの?」
「はい」
「じゃあ、あの事故は・・・実際に起こったことなんだ」
「残念ながら、そうなりますね」
「なんてことを・・・なんてことをしたんだ!
車に乗って事故を起こしておきながら、
怪我してる人を見捨てて逃げるなんて!」
話を少し前に戻そう。
暁さんの仕事に立ち会うためにマンションの屋上にやって来た俺は、
深夜3時24分00秒で時が止まるという奇怪な状況の中、
「開け〜、ゴマ!」の言葉とともに自分の指先に万年筆を突き刺した暁さんに
驚きながらもしっかりとツッコミを入れていた。
すると辺りが突然真っ暗になって、巨大な碧い月が現れたんだ。
そして、それを背に静かに佇む暁さんの髪は腰元まで伸びていて、
もともと赤かった瞳はまるで極上の獲物を前にした獣のように爛々と輝き、瞳孔が細長く変化していた。
「あの、暁さん・・・髪がめっちゃ伸びてますけど?」
「ええ。これは鞘なんですよ。
男の私には、こんなに長い髪は全く似合わないんですが、
紅の龍の仕事には欠かせないものなので仕方がありません」
暁さんは美形だから、その長い髪も似合ってますよ。
むしろ美しさが倍増してますよ〜、とは言わないほうが賢明だな、うん。
「・・・鞘ってどういうこと?髪の毛が剣に変わっちゃったりするわけ?」
「それは後ほど。それより、いらっしゃったようですね」
誰が?と問おうとした俺の足元に、一匹の黒猫が擦り寄ってきた。
「どこから現れたんだ、この猫?」
「ニャ〜」
「よしよし。どうした?迷子かな。毛並みがいいから、野良じゃなさそうだ」
「惣万様。お手数ですが、その猫を持ち上げてバンザイさせていただけますか?」
「え?え〜と、こう?」
わきの下に手を入れて猫の体を持ち上げ、暁さんにお腹を見せるように抱えあげた。
「しばらくそのままでいて下さい」
「うん」
暁さんは上着の内ポケットから黒革の手帳を取り出し、パラパラとページを捲って何かを確認している。
ふむふむと何度か頷くと、猫の肉球をやおらぷにぷにと触り始めた。
「暁さん、遊んでないで仕事しようよ。そりゃあ、肉球の触感がたまらないのはわかるけどさぁ」
「いえ、暗証番号と対象者の識別コードを入力しているんです」
「・・・いやいや、どう見ても押してるの猫の肉球じゃん」
「右足が1から5、左足が6から9と0なんです。ここ、指のところですね。
そして手の平というか面積が広い部分は、右手がDeleteで左手がEnterになっているんですよ」
「・・・へぇ・・・」
龍って、龍の世界って、絶対変だ。
「開け〜、ゴマ!」の掛け声もそうだし、
真剣な面持ちで猫の肉球ぷにぷにしてる龍って(見た目は成人男性)どうなの?
おかしいだろ!!
「入力完了しました。認証の手続きはこれで終わりです。では、参りましょうか」
それから俺たちは前を歩く黒猫の後をついて行って、どうやら空間を移動したらしい。
今いるのは、とあるマンションの一室。
ダイニングテーブルの下に、中年男性の遺体が横たわっている。
頭から血を流し、目を見開いたままだ。
生々しい死体に俺が立ちすくんでいると、
黒猫が男性に駆け寄り、その傍で体を丸めて一声ニャ〜と鳴いた。
みるみる、猫の体が半透明になって輪郭がぼやけていく。
猫の姿が空気に溶けて完全に消えるのを見届けたと同時に、
誰かの古い記憶が俺の頭の中に流れ込んできた。
橘雄一郎さん、あんた、人を殺したんだよ
命を、奪っちゃったんだよ
女の人のお腹には赤ちゃんがいたのに
旦那さんは、もうすぐお父さんになるはずだったのに
幸せな未来がすぐそこまで来てたのに
あんたが、何もかも、壊しちゃったんだ
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