第六話  犯した罪と、償いと





しんしんと降り積もる雪がアスファルトを白く染めている。
頭上にはまん丸に満ちた月。
周りの静寂に反して、心臓はうるさいほど鳴りはぁはぁと忙しなく呼吸している。
体は熱くじっとりと汗をかいている。


何も・・・何も、考えられない・・・


呆然としたまま夜空を見上げたら、月と目が合った気がした――――――







寝静まった住宅街の道路に一台の軽自動車が不自然な格好で停まっている。
道を逆走する方向に車体を向け、ヘッドライトは点灯したまま、
電信柱に後方をぶつけた状態で静止しているのだ。

早朝、新聞配達の男性がその車を不審に思い110番通報したところ、
車内から夫婦と思われる若い男女が発見された。
男性は虫の息で意識不明の重体だったが、救急車で搬送された病院でかろうじて一命を取り留めた。
しかし女性の方は即死であり、さらに悪いことには、
彼女は臨月でお腹の胎児も助からなかった。
警察の調べでは、夫婦の乗った軽自動車は走行中に垂直方向から激突されたために、
雪の上をスピンして後ろ向きに電信柱に突っ込んだらしい。
十字路を横断しようとしたもう一台の車が、
右手からやってきた夫婦の車に気づくのが遅れ衝突したものと推測された。

軽自動車は後部座席と左側の車体側面が大きく破損しており、ガラスの破片が辺りに飛び散っていた。

チャイルドシートも準備されていた若夫婦の愛車は、
産気づいた身重の奥さんを病院に送り届けられぬまま、鉄の塊に成り果てた・・・
ただ、夫妻の無念を表すようにヘッドライトの光だけは失わぬまま。







市立病院の救急救命センターに勤務する橘雄一郎は、
大きな十字架を背負ってこの25年を生きてきた。

国家試験に見事合格し、4月からは研修医生活が始まろうとしていた矢先、
あの事故が起きたのだ。

長かった試験勉強からやっと解放されて、夢だった医者への第一歩を踏み出せたのだ、
浮かれて仲間と酒を飲みすぎても仕方がないだろう。

いい気分で居酒屋を後にし、帰路に着く途中だった。
十字路を直進する橘の右手から軽自動車が飛び出してきたのだ。

橘は慌ててブレーキを踏んだ。
そうだ、確かに自分はブレーキを踏んだはずだったのに、
車は止まるどころかさらに加速して、軽自動車の横っ面に勢いよく衝突した。



気がついたら、大きくひしゃげた軽自動車の傍に立ち尽くしていた。
後部座席はめちゃくちゃだったが運転席は原型を留めており、そこに人が居ることも確認できた。


だが、橘は何もしなかった。

救急車や警察を呼ぶこともせず、
医者の卵であるにも関わらず人命救助の義務を放り出し、その場から逃げたのだ。



真夜中に起きた事故だったために目撃者はおらず、
降り続ける雪が重要な手がかりであるタイヤ痕を覆い隠してしまった。
軽自動車に残された塗料からかろうじて車種は特定できたものの、
一般家庭に広く出回っているもので、逃走先も不明なままでは持ち主を特定するのは難しかった。


こうして事件はお蔵入りになり、犯人不明のまま25年の歳月が過ぎ去った。



橘は恐ろしかった。

自分が犯人として捕まることが。
手に届く距離にある、輝かしい医者としての未来を失うことが。

怖くて怖くて、どうしても自首できなかった。

事件を忘れるように、罪の意識から逃れるために、
毎日懸命に働いて、寝る間も惜しんで勉強し、患者に尽くした。

やがて、実績を上げた橘は若くして救命救急センターの部長に抜擢され、
同僚の医者や看護婦はその手腕を高く評価し、
患者からは信頼できる医者だと感謝されることも多くなった。


医者として多くの人命を救ってきた自負はある。
だからといって、昔犯した過ちは赦されるわけではない。
けれども、どこかで、こうやって償いを続けていれば罪悪感が軽減されるような気もしていた。



そんなある日、急患として橘の病院に一人の男性が運び込まれてきた。
彼の顔を見た瞬間、橘は全身の血が凍ったように目を見開いたまま硬直した。

25年経っていても面影は残っている・・・忘れることなどできない。
あの事故の、運転席に居た男性だった。

彼の妻とお腹の子の命を奪い、彼自身にも重症を負わせた、
あの大雪の日の記憶が橘の全身を、心を、今一度突き抜けて震撼させた。






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